シカの「落ち穂拾い」――フィールドノートの記録から
辻大和
観察のきっかけ
宮城県牡鹿半島の沖にある金華山は、面積約十平方キロメートルの小さな島だ。ブナやモミの原生林が残り、ニホンザルやニホンジカをはじめ、野生の生き物が数多く生息している。私はこの島で、サルの採食行動について研究してきた。
島には現在約二百頭のサルがいて、六つの群れを作って生活している。私が研究のために観察してきたのは、島の北西部にいる群れである。この地域には、サルの他に、三百頭近くのシカも生息している。ただ、サルは樹上を、シカは地上を主な生活の場としているため、この二種の動物は互いに無関係に暮らしていると考えられてきた。
ところが、二〇〇〇年五月二十三日、いつものようにサルを観察していたときのことだ。フィールドノートに記録をつけていた手を止め、私は思わず目の前の光景に見入ってしまった。驚いたことに、数頭のシカが、サルが採食している木の真下に集まり、サルの落とした葉や花を奪い合うようにして食べ始めたのである。なかには、サルの重みでたわんだ枝に食いつき、普段は届かない所にある葉を食べているシカもいた。下は、その日のフィールドノートの一部である。
後日、文献を調べたところ、樹上の動物が落とした食物を地上の動物が採食するという行動は、ミレーの名画になぞらえて「落ち穂拾い」とよばれていることがわかった。ただ、その詳細が検討されることは、これまであまりなかったようだ。
「落ち穂拾い」に興味をもった私は、その後もシカの同様の行動を見かけるたびに、フィールドノートに次の項目を記録することにした。
・日時・場所・天気
・「落ち穂拾い」でシカが採食した植物
・「落ち穂拾い」をするシカの数
・その他、気づいたこと
観察からわかったこと
二〇〇〇年から二〇〇五年までの合計三百日に及ぶ観察の中で、私が記録した「落ち穂拾い」の回数は四十七回に上る。集めた記録からわかったのは、次のようなことだ。
・「落ち穂拾い」は、三月から五月にかけての春に集中していた(図1)。
・「落ち穂拾い」で、シカは十六種二十二品目の植物を採食した(表1)。
・「落ち穂拾い」をするシカの数は、一回当たり一頭から二十一頭とばらつきがあった。
・サルが樹上で採食するときには、途中で食べ飽きて枝を捨てることなどが多く、木の下には意外に多くの植物が落下していた。
仮説
記録をつけながら、私はシカが「落ち穂拾い」をする理由について考えていた。わざわざサルがいる木の下まで集まってくるのだから、サルの落とす食物には、シカにとって何か魅力があるはずだ。また、その行動が春に集中するというのも不思議である。
私は、シカが「落ち穂拾い」をする理由について次のような仮説を立て、二つの調査を行うことにした。
一 春は、シカの本来の食物が不足している。
二 サルの落とす食物のほうが、栄養価が高い。
仮説の検証
一について イネ科の草の供給量の測定
(二〇〇四年―二〇〇五年)
シカの本来の食物であるイネ科の草の供給量が、季節によってどのように変化するかを調べた。毎月、五十センチメートル四方の範囲内に生えているイネ科の草を刈り取り、重さを量ったのである。その結果、イネ科の草の量は夏から秋にかけて多く、その後急激に減少することがわかった(図2)。
「落ち穂拾い」が多く生じる春は、シカの本来の食物が不足している時期なのである。
二について 食物の栄養価の分析
(二〇〇四年―二〇〇五年)
栄養価を比較するために、シカが「落ち穂拾い」で採食した食物と、シカの本来の食物であるイネ科の草とを採集し、成分分析を行った。その結果、「落ち穂拾い」で採食した食物のほうが、一年を通して脂質やたんぱく質、炭水化物などが豊富で、食物にふくまれるエネルギーの量が多いことがわかった(表2)。
サルの落とす食物は、シカの本来の食物よりも栄養価が高いのである。
さらに、興味深いデータがある。島の北西部でシカを調査している研究者は、同じシカの体重を、年に数回測定している。その記録を見ると、三月ごろはシカの体重が非常に軽いことがわかる(図3)。食物の乏しい冬の間に、秋までに蓄えた体脂肪を消費するため、春先は体重が軽くなるのだ。このことは、岩手県で行われたシカの体脂肪の測定結果からもわかっている。春先は、一年の中で、シカの栄養状態が特に悪い時期なのである。
考察
これらの結果から、先に挙げた二つの仮説は支持されたといえるだろう。シカにとってサルは、食物が乏しく栄養状態の悪い時期に、自力では獲得が難しい、しかも栄養価の高い食物をたくさん落としてくれる、ありがたい存在であると考えられる。
初めに述べたとおり、これまで、樹上で暮らすニホンザルと地上で暮らすニホンジカは、互いに無関係に暮らしていると考えられてきた。しかし、一連の調査によって、この二種の動物がつながりをもって暮らしていることがわかってきた。私は今回の調査を通して、同じ場所に暮らす生き物どうしの結び付きの複雑さ、そしておもしろさの一端を、かいま見たように感じている。
今後はさらに詳しい調査を行い、サルの行動がシカの生活に及ぼす影響の大きさがどの程度なのか、見ていくつもりである。また、シカのほうがサルに与える影響についても調べてみたい。動物たちにとってバランスの取れた生息環境を維持するために、こうした研究から得られた知識を役立てることができるなら、それは研究者としての何よりの喜びである。